
魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉ネタバレあり解説・考察
この投稿はネタバレを含みます
劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉
解説/考察記事書きました。
個人的に最高傑作なため魂込めて書いたので理解出来なかった人は一読してみてください。
冒頭シーン
一番最初のシーンから行きます。「トカゲさん電話に電話すると願いを叶えてもらえる」という都市伝説が流行っている設定。トカゲ=ほむらと考えてください。つまり、キュゥべえの「僕と契約して魔法少女になってよ」に対抗して「トカゲさん電話で一時的に力を貸す」という新しいシステムをほむらが作ったということ。ただしトカゲ電話を使った少女には、通常の魔法少女にあるはずのソウルジェムがない。そのためキュゥべえと契約した本物の魔法少女ではない。ほむらが一時的に魔力を与えている「疑似魔法少女」と解釈できる。
なぜほむらはこんなシステムを作ったの?
理由は魔獣を処理する人間が必要だから。ほむら世界にも「魔獣」は残っている。TV最終回でまどかが魔女を消した後、人間の呪いや負の感情から、「魔獣」が発生する世界にななった。『叛逆』後にほむらが世界を上書きしても、人間の負の感情そのものまでは消していない。だから魔獣はいる。でもほむらは、まどかをこれ以上危険な戦いに巻き込みたくない。そして、まどかが円環の理を思い出す危険を減らさなければならない。そこで、一般少女に一時的な力を与える→魔獣を処理させる→終わったら力と記憶を消す、という非常にほむららしいシステムを作った。しかも「願いを叶える」というのもかなり怪しい。少女は「願いを叶えてもらう」と思って契約しますが、戦闘終了後、恐らく願いも実質的に残らず記憶まで消される。キュゥべえ自身もその仕組みをアンフェアだと評している。キュゥべえはただ合理的な生物だとここからもよくわかるシーン。(キュゥべえに関しては後で少し書きます。)
つまり、キュゥべえの契約システムを嫌っていたほむらが、「自分の管理する契約システム」を作ってしまった。最高に残酷で面白い皮肉が描かれていた。ほむらはキュゥべえを否定したが少女の願いを利用して、戦わせ、必要なくなれば記憶を消す。結局キュゥべえのやっていることに近づいている。ただ勘違いしていけないことがある。それは最初のいじめの少女のシーンでは、少女が飛び降りようとした場面(恐らく自殺をしようとした場面)でトカゲ電話を鳴らしている。ここは利用しているとはいえこの少女を救っているとも観ることができるだろう。それをセリフとして説明しないのが本当に安っぽくなくていい。
戦いの後に「トカゲの尻尾」が残るのはなぜ?
「トカゲさん電話で少女に与えられていた力が、戦闘終了と同時に切り離された」ことを視覚化したという描写だと考えられる。「トカゲさん=ほむらから一時的に与えられていた力/つながりが、戦いの終了とともに切り離された」ことを表していて、同時に「トカゲの尻尾切り」という、ほむらが表に出ず少女との関係を断つ構造の象徴として描かれた。上で説明してきたことがわかる1シーンでしたね。映画のラストまで見た後だと「何かを自分から切り離す」という作品全体のテーマ、まどかと円環の理、まどかとほむらなどにも重ねて見られるようになっているのが非常にいい。
なぜ冒頭のトカゲが串刺しになっているのか?
ここは私の解釈を書きます。ここはかなり象徴的なシーンでしたよね。まずトカゲ=悪魔ほむらの象徴。そのトカゲが自由に動いているのではなく、串刺し/磔((はりつけ)のような状態になっているということは、「世界を支配しているように見えるほむら自身も、実はその世界とまどかへの執着に縛られている」ことを示している可能性があると読める。『叛逆』でほむらはまどかを救うため世界を書き換えたが、その結果、自分自身も“まどかを人間として維持し続けなければならない存在”になった。つまり支配者でありながら同時に囚われているということ。さらに磔という構図は、ほむらが『叛逆』で行った世界改変の代償や贖罪、そして今作で悪魔ほむらという在り方そのものが一度壊されていくことの予告にも見える。トカゲは尻尾を切って再生する生き物なので、単なる「ほむらの敗北」ではなく、悪魔ほむらという形が一度崩れ、その後“暁美ほむら”として別の形に再構成されることまで暗示していた可能性もある。映画の最後に再びトカゲさん電話へ戻ることを考えると、冒頭からすでにこの映画全体の「切断→崩壊→再生」というテーマを圧縮して見せていたシーンだったと考えられる。
現在のほむら・まどか・さやかたちは?
ここで一旦整理します。この世界を作ったのは、悪魔ほむら。まどかは、「アメリカから帰ってきた普通の転校生」として暮らしている。これは『叛逆』ラストそのまま。全員の記憶はほむらによって加工されている状態。さやか、なぎさは円環の理側の存在だった。(円環の理側=神になったまどかと一緒に、魔法少女を救済する側にいる存在)
今回さやかが顔に包帯をしている理由は?
さやかの中には、魔女「オクタヴィア」の記憶が封印されている。つまり包帯は、さやか自身の本当の状態を拘束しているという視覚表現だと考えられる。実際に物語が進み、さやかが世界のおかしさを思い出し始めると包帯が緩んでいく演出があった。名塚底根(後で説明します)には「魔女だった少女の記録」がある。だからさやかが、Oktavia von Seckendorffという自分自身の魔女記録へ触れる。すると、現在の普通のさやかはほむらが作った偽りの記憶だということを理解し、オクタヴィアは自分が一度魔女になったという事実にたどり着く。そして包帯がほどける。「ほむらによって偽られていたさやかが、本当の自分を取り戻した」という意味のある描写だった。かなり分かりやすく言うと、包帯=ほむらによる記憶封印と考えると分かりやすい。
まどかの前に現れる「ほむらそっくりの女」「名前のない上級生/ワス」は何者?
まどかを見て、「マルグリート」と呼ぶ。この時点では意味不明。結論から言うとワス=「ワルプルギスの夜」と理解していい。ただし「TV版で巨大な歯車の魔女だった奴が、人間に変身しました」というわけではない。円環の理→名塚底根→現世という特殊な経路を使って戻ってきた結果、「魔女っ子」と呼ばれる人型に近い状態になっていたと考えられる。後に出てくる、ワス・紫丁香・セルマも魔法少女→魔女→名塚底根を経由して現世へ戻った「魔女っ子」という状態として説明出来る。だから「ワスはなぜ巨大な歯車の魔女の姿で現れなかったの?」という疑問に対しては、今回はワルプルギスの夜が“魔女として再出現した”のではなく、「円環の理に救済された存在が、名塚底根を経由して現世側へ戻ってきた特殊状態」だからと考えられる。
なぜワスはほむらそっくりなの?
ワスは「ほむらの顔」をしていた。ワスは元々ほむらではない。ではなぜほむらにそっくりなのか。ワルプルギスの夜はずっと「まどか=救済」を求め続けていた。そして、現在世界でも同じく「まどかを強烈に求めている存在」がほむら。だから、ワルプルギス側がほむらに似た姿を取っている。つまりこの二人は鏡像だと考えられる。ほむら→まどかを求め続ける存在。ワルプルギス→まどか=救済を求め続ける存在。って感じですね。
マルグリートとはそもそも何者?
マルグリートは、まどかよりはるか昔に存在した魔法少女。彼女もまどかと同じように「苦しんでいる魔法少女たちを救いたい」と考えた少女。しかし当時、絶望した魔法少女たちは現在私たちが知っているような「固有の名前・姿・結界を持つ魔女」になっていたわけではなく、名前や人格や個性そのものを失った怪物のような存在になっていたと描写されていた。劇中では魔物と表現される、個性も人格も持たない存在。マルグリートはそれを見て、「この少女たちを救いたい」と願う。しかしマルグリートとまどかには決定的な違いがある。まどかには、ほむらが何度も時間遡行したことで無数の時間軸の因果が集中していた。そのためまどかは「宇宙そのものを書き換える」という異常な規模の願いを叶えることができた。一方、マルグリートにはそこまで巨大な因果がない。だから「過去・現在・未来すべての魔法少女を完全に救済する」ことはできなかった。
ではマルグリートはどのような救済を残したのか?
そこでマルグリートが選んだのが、「完全に救えないなら、せめてその少女が誰だったかだけは失わせない」という救済。絶望した魔法少女は名塚底根でその少女固有の名前・姿・性質を与え、「魔女」として存在を残す、という仕組み。つまり今回とんでもないことが明かされた。私たちはずっと魔法少女→絶望→魔女を最悪のシステムだと思っていた。でも今回、それ以前は絶望すると名前も人格も個性も失う。マルグリート以後、絶望しても「魔女」として名前・姿・個性だけは残る世界だった可能性が示された。つまり「魔女」という仕組み自体が、マルグリートの不完全な救済だったということ。がちで面白すぎるんだよな。
これによってなぜ魔女にはシャルロッテ、オクタヴィアなど固有名があるの?という疑問が完全に答えられた。名前→その少女の存在証明。姿→その少女の人生・願い・絶望の反映。結界→その少女の心の世界。魔女化そのものは救いではない。でも「名前すらなくなる」よりは、その少女の痕跡を残せる。だから固有名がそれぞれあった。今回の映画で過去作の魔女演出すべての意味を変えた。震えますよね。
名塚底根とは何?
名塚底根とは「すべての魔女の始まりの場所」。そして内部には、過去に存在した魔女たちの記録が本のような形で保存されている。だからさやかが名塚底根に入ると、自分=オクタヴィアの記録に触れることができていた。悪魔ほむらによって消されていた「私はオクタヴィアだった」「私は一度円環の理に救われた」という本来の記憶が戻る。あのシーン少し描写が分かりにくかったが多分この解釈でいいと思います。名塚底根は単なる敵のアジトではなく、「魔女だった少女たちの本来の記憶を保存している場所」でもあると考えられる。さらに重要なのが、名塚底根は円環の理とは別の救済システムであること。名塚底根→魔女になってしまった少女の名前・個性を残す。円環の理→そもそも魔女になる前に少女を救済する。つまり、マルグリートの救済→「魔女になってもあなたを忘れない」。まどかの救済→「あなたを魔女にさせない」。という違いがある。
マルグリートはなぜワルプルギスの夜になったの?
マルグリートは救済を求める魔法少女を次々受け入れようとした。しかし自分一人の力では全員を完全に救えない。少女たちは「助けて、マルグリート」と救済を求め、マルグリートが呪いを引き受け、さらに別の少女が来る。さらに呪いを抱える。その結果、マルグリート自身が大量の魔女・呪いと融合していく。マルグリート+救えなかった多数の魔法少女の呪いが巨大な集合体となりワルプルギスの夜になったってことですね。
なぜワスはまどかを「マルグリート」と呼んだの?
もちろんまどか=マルグリート本人ではない。生まれ変わりだと確定したわけでもない。マルグリートは「すべての魔法少女を救いたい」と願った少女。まどかは実際に「すべての魔法少女を魔女になる前に救う」宇宙法則になった少女。つまりまどかは、マルグリートがやりたくてもできなかったことを完成させた存在ということ。だからワルプルギス/ワスの中で、マルグリート=「魔法少女を救ってくれる者」という原型。まどか=その救済を本当に完成させた者とが重なって見える。そのためワスはまどかを「マルグリート」と呼んだ、と考えられる。
なぜTV版でワルプルギスの夜は毎回まどかのところへ来たの?
TV版では、ほむらが何度時間を巻き戻してもワルプルギスの夜は見滝原にやって来る。今までは「そういう巨大災害級魔女だから」で終わっていた。しかしマルグリートの根本願望=魔法少女の救済と判明したことにより、ワルプルギスは自分たちを完全に救ってくれる存在を求める。そのため最終的にその力を持つまどかへ引き寄せられていたと読むことができる。あってるか分からないが、これ気づいたときがちで震えました。
ワスが鹿目家に現れてまどかに接触する目的は?
結論から言うと普通の鹿目まどかに「自分は本当は円環の理だった」と思い出させ、円環の理を取り戻すこと。だからまどかの家にまで入り込み、まどかの記憶を刺激する。一方ほむらがこの世界で一番恐れているのは、まどかが円環の理を思い出すこと。なぜなら、まどかが思い出すと普通の人間まどかとしての生活が崩れ、円環の理へ戻ろうとする。『叛逆』でほむらが宇宙を書き換えた意味がなくなってしまうから。だからほむらは即座に介入してワスと戦う。まどかを巡る二つの救済思想が戦っている。
なぜ悪魔ほむらがワスに苦戦するの?
『叛逆』ラストを見ると、ほむらは宇宙を書き換えた「悪魔」なのでほぼ無敵に見える、というか今回の映画ではほむらが弱く見えたりした。そこにもちゃんと理由がある。ほむらは今回、ワス相手には絶対的な力を見せられない。理由として考えられるのは、まず1つ目ほむらの力は現在の世界を維持し、まどかを人間として固定するために大量に使われている。2つ目はワスたちは現在のほむら世界とは異なる名塚底根を経由して侵入してきた存在だということ。この2つが重要。つまりほむらは「自分が作った世界の中では支配者」に近いが、宇宙の外側・別システムに近い名塚底根由来の存在まで完全支配できる万能神ではないということ。この映画は「悪魔ほむらの世界にも外側があった」ということを名塚底根によって示したわけだ。
紫丁香は何者で、なぜまどかを襲うの?
紫丁香も普通の現代魔法少女ではなく、円環の理→名塚底根という特殊な経路を通って現世へ戻ってきた側の存在。丁香はかつて希望を願い、その願いが最終的に絶望へ変わり、魔女になった側の少女。丁香は“普通に暮らしているまどかがずるい”から襲ったというより、自分を救った円環の理を奪ったほむら世界を認められず、その修復を求めて暴走した。円環の理を信奉しており、ほむらによって円環の理が壊された/欠けたことを許せない。そして何より、円環の理を元へ戻したい。だが最終的には彼女が本当に求めていたのはシステムとしての円環の理ではなく、自分の絶望を理解してくれる鹿目まどか本人だった。ここの描写大好き。
杏子が丁香と関わる意味は?
杏子はTV版で、「他人のために願った結果、人生が崩壊した」少女。つまり「善意の願いが絶望に変わった経験」を誰より知っている。だから、願いに裏切られ、絶望を抱え続けている丁香と非常に相性がいい。杏子は丁香の思想を正論で否定するのではなく、「願ったことを後悔する」「救いを憎む」という感情そのものを理解できる側にいる。そのため丁香パートは、新キャラの紹介だけではなく、かつて同じように願いに裏切られた杏子→それでも誰かを思いやれるようになった。丁香→まだ恨みから抜け出せない。という対比を描いたんだと考えられる。
セルマ・テレーゼは何者?
セルマも紫丁香と同じく今回現れた新しい魔法少女。ただし丁香やワスと決定的に違うのが、キュゥべえの考え方にかなり近いこと。キュゥべえは個々の少女の悲劇より、宇宙全体の維持の方が重要だと考えている。セルマはこれを完全に人間的倫理から拒絶する側ではなく、「宇宙にとって必要なら意味がある」と考えている。そのためワス→円環の理=完全な救済を取り戻したい。丁香→自分たちの苦しみや救済の不公平を許せない。セルマ→そもそも魔女化によるエネルギー回収にも価値がある。このように3人は一緒に出てきても目的はそれぞれ違う。
なぜセルマはまどかを魔女にしようとしたの?
セルマは、まどかはかつて宇宙を書き換えられるほど巨大な因果を持った少女だから、もしこのまどかを再び魔女にできればとてつもないエネルギーを生み出せるのでは?と考えている。そこで名塚底根に保存されている「まどかが魔女になった場合の記録/救済の魔女に関わる記録」を利用し、人間まどかへその魔女としての性質を押し付ける。しかしセルマには大きな勘違いがあった。キュゥべえが欲しかったのは「魔女という形」そのものではない。エネルギーを欲しがっていた。現在のまどかは、もうTV版のときのように「究極の希望から究極の絶望へ落ちる」という過程を踏んでいないためキュゥべえがセルマの考え違いを指摘する流れになっている。セルマはキュゥべえを理解しているつもりで、実は完全には理解していなかったことになる。残酷すぎる設定。
なぜここでキュゥべえがまた動き始めるの?
『叛逆』終了時点でキュゥべえはほむらに完全敗北していたが今回、ワス・丁香・セルマという、自分の知っている宇宙システムから外れた存在が出現。さらにその背後に「名塚底根」という未知の領域がある。キュゥべえからすると、「これは何?」となる。名塚底根まで追跡して入り込み、彼女たちへ接触する。キュゥべえの本当の目的は「未知のエネルギーシステムを観測したい」ということ。『叛逆』のときに円環の理という未知システムを観測して支配しようとしていたのと同じですね。よくキュゥべえは叩かれていますが自分の役目を果たそうとしているだけの合理的な生物だと私は考えています。今回の映画ではそれがよくわかるシーンがたくさんありました。先ほども説明したキュゥべえは個々の少女の悲劇より、宇宙全体の維持の方が重要だと考えているというところからも同じことがいえる。ここが非常に面白い部分だと思う。
なぎさがシャルロッテの力を使えるのはなぜ?
なぎさも基本的にはさやかと同じ。百江なぎさは魔法少女になり、絶望し、お菓子の魔女シャルロッテになる。円環の理によって救済され『叛逆』では円環の理の使者としてまどかと一緒にほむらのところへ来る。そのため現在のなぎさも、「シャルロッテだった自分」と完全な別人ではない。「円環の理の使者として現世に戻った存在」である。だから終盤でさやか=オクタヴィア、なぎさ=シャルロッテという過去の魔女の力が再び表に出る。これは二人が再び魔女へ堕ちたというより、円環の理に救済された後、自分がかつて魔女だったことまで含めて受け入れた特殊な存在と理解するのが良いだろう。
終盤で敵味方が全部入れ替わるのはなぜ?
序盤は、悪魔ほむら vs ワス・丁香・セルマのように見える。しかし先ほど説明したように実際は3人の目的が違う。そこでセルマがまどかを「エネルギー源としての魔女」にしようとした瞬間、ほむら、さやか、杏子、マミ、なぎさはもちろん、ワスや丁香にとっても「それは違う」となる。ワスが欲しいのはまどかの救済。丁香も最終的には自分の苦しみを分かってほしい。セルマだけがまどかをシステムの部品として扱う。だから一時的に全員の利害が一致して、「セルマにまどかを利用させない」という共闘になる。熱すぎる展開。
まどかが本当の自分を思い出してしまう決定的な意味とは?
セルマ事件を通してまどかは、魔法少女、魔女、名塚底根、円環の理、ほむらの世界改変、という自分から隠されていたものへ一気に触れてしまう。そして最終的に、「私は普通の鹿目まどかであるだけではない」などという本来の自分を取り戻す。ここで『叛逆』ラストから続いていた爆弾が爆発した。『叛逆』ラストでもまどかは一瞬、「私、何か大切なことを忘れているような……」と円環の理へ戻りかけていた。そのときはほむらが止めた。でも今回、あまりにも多くの本来の世界の情報に触れてしまい、もう完全には押さえ込めない。つまりほむら世界の終わりを意味する。
なぜほむらは最後にまどかの「円環の理へ戻る」選択を受け入れようとした?
ここがほむらの今回最大の変化。『叛逆』のほむらは、愛しているがゆえに、まどか本人の選択を奪った。しかし今回、まどかはもう一度、「円環の理へ戻る」方向を選ぼうとした時、ほむらは一度それを受け入れようとする。いや、諦めようとしたとも考えられる。結局は、さやかがほむらを「あんただけはまどかを円環の理なんて呼ぶな」「魔法少女が救われなくなっても、まどかを救え」と叱り、ほむらが再び立ち上がり円環の理に対抗する流れにはなったが、このシーンは『叛逆』ラストと対比されていると考えられる。『叛逆』とは違う形でまどかを守ろうとした。「まどかの幸せを勝手に決める悪魔」から「自分も一人の少女として、まどかと一緒にいたいと願うほむら」へ変わった。ほむらの大きな成長が描かれていた。
なぜ周りのみんなは逆にまどかを行かせたくなくなるの?
今回の世界では、マミ、杏子、さやか、なぎさたちも「普通の鹿目まどか」と一緒に生活してしまった。だから彼女たちにも、「円環の理という神」ではなく「友達の鹿目まどか」を失いたくない感情が生まれる。『叛逆』ではほむら一人だけが持っていた、「世界の救済なんかより、まどか本人にここにいてほしい」という感情を、他の少女たちも理解するようになった。だから最終盤は単純な、ほむら=まどかを引き止める悪。みんな=まどかを円環へ戻す正義。ではない。全員が「円環の理は必要。でもまどかという友達も失いたくない」という矛盾を抱える。叛逆ラストとは違い、みんながまどかを必要としている。覚えている。これが1番面白くて苦しいところ。
最後のベンチと膝枕のシーンは何を意味するの?
まどかが座り、その膝の上でほむらが眠る。これまでの二人の関係を考えると完全な逆転。ほむらはまどかを守る側。まどかはほむらが守りたい存在だった。最後のベンチでは、まどかが眠っているほむらを受け止める。ほむらがまどかに身を預ける、になる。つまり、ほむらが初めて「まどかを守り続けなければ」という役割から降りている。さらにほむらは、自分の願いを言葉にはした上で、まどかを拘束しない。だから膝枕は、「私はあなたの気持ちを知っている」というまどか側からの返答にも見える。ただし「だから一緒に残る」ではない。そこが余りにも残酷で泣ける。
なぜタイトルが「ワルプルギスの廻天」なの?
作品全体が、元の世界→まどかが世界を改変→円環の理の世界。円環の理の世界→ほむらが再改変→悪魔ほむらの世界。悪魔ほむらの世界→今回まどかが自分自身を取り戻す→再び円環へ。という「世界が再び巡っていく」物語になっているから。この物語が意味ないや結局変わってないみたいなことを思う人たちがいるのはこのためですが、ここまでの解説を読めば1ミリもそんなことはないとわかるはずです。さらにマルグリート→完全な救済を目指すが失敗→ワルプルギスになる。まどか→マルグリートが失敗した完全救済を実現→円環の理になる。ほむら→その円環の理からまどかを奪う。ワルプルギス→再びまどかを円環へ戻そうとする。と、マルグリートからまどか、ほむらを経て再びワルプルギスへ「救済の歯車」が回っている。だから「廻天」。ワルプルギスの存在そのものが、世界をもう一度巡らせる役割を果たしている。
まどかは最後に本当に円環の理へ戻ったの?
最終盤でまどかは自分の役割を思い出し、円環の理へ戻る方向を選ぶ。そしてベンチの場面の後、まどかの姿はほむらのそばから消える。そのため最も自然な解釈は、人間として切り離されていた鹿目まどかは円環の理へ再統合されたというものだが私はそう解釈していない。一方で「人間まどかという人格が完全消滅した」とまで言えるかはまだ分からない。最後にまどかの声が残る描写もあり、「人間まどかと円環の理の関係が以前とは変わった」可能性もある。ほむらが作った「普通の少女として固定されたまどか」の状態は終わったがまどかは断定できる描写はなかったです。このラストシーンに関しては断定することはできない。だが私はこう解釈した。「円環の理と鹿目まどかが分離したまま両立できる形に更新された」というもの。まどかは円環の理と対峙し、「鹿目まどかという個人」と「救済システムとしての円環の理」の関係を再構築した。円環の理はまどかの祈りを核として存続する一方、鹿目まどか本人まで宇宙から消滅する必要はなくなった。だからほむらの『叛逆』での反逆も無駄ではなく、結果として「まどか自身を犠牲にしない救済」という第三の答えにたどり着いた。完全な「まどかとほむらの別離」ではなく、二人の願いが初めて両立できるところまで来た終わりだったと。そう考えると最後は涙なしでは見られなかった。
EDの足跡の意味は?
エンドロールでは白い足跡と黒い足跡が何度も近づいたり離れたりしながら進んでいく。まず黒=ほむら、白=まどかと考えるのが自然で、この二人がこれまで歩んできた関係そのものを足跡で表現していると考えられる。ただし重要なのは、白い足跡が途中で一度消えたように見えたあと、別の形の白い足跡として再び現れること。単純に「まどかが消滅した」だけではないことを意識して見てほしい演出だったのだと思う。私はこの足跡の変化は、「鹿目まどかという個人」と「円環の理としてのまどか」の状態変化を表していると考える。先ほどの解釈がここでも繋がってくる。最初の白い足跡=ほむらが人間として取り戻した鹿目まどか。その足跡が途中で消える=『叛逆』以降の“普通の少女として固定されたまどか”という状態が終わる。そして別の形の白い足跡が現れる=まどかが以前とは違う存在状態へ移ったことの示唆。ただしその白い足跡は完全に消滅するわけではないため、TV版ラストのように鹿目まどかという存在そのものが宇宙から失われた、と単純に読む必要はない。さらに黒と白の足跡が一度近づきながらも完全に一つにはならないところも重要。これは「まどかとほむらが永遠に別れた」というより、二人が相手を自分の理想の形に固定する関係から抜け出し、それぞれの意志を持った存在として歩き始めたことを表しているように見える。ここは色々な解釈ができそうだが、私はこのように解釈しました。
ED曲「彼方」が意味していることは?
もう本当にこのED曲が素晴らしすぎる。ED曲「彼方」は、単純な「まどかとほむらの別れの歌」ではなく、これまで何度も互いを救おうとして相手の人生まで変えてしまった二人が、ようやく「相手を自分の望む形に固定せず、それでも想い続ける」段階へ進んだことを表しているように感じる。歌詞全体には別れや痛みを受け入れながらも、それを無かったことにせず未来へ進もうとする言葉が多く、『叛逆』までの「過去をやり直す」「世界そのものを書き換える」という二人の救済とは明らかに方向が違う。特に「ここにいる」という存在を確かめるような表現は、今回のラストで問題になった「円環の理として世界を救うこと」と「鹿目まどかという一人の少女が存在すること」を両立できるのではないか、という解釈もできる。さらに曲の終わりが完全な喪失ではなく、まだ見えない先へ進むような感触になっているため、私はこのEDを「別れの歌」というより、TV版→『叛逆』→『廻天』と続いたまどかとほむらの関係が、ようやく過去をやり直す物語から未来へ進む物語へ変わったことを示す歌だと考えています。
最後にまた「トカゲさん電話」が鳴るのはなぜ?
映画冒頭、トカゲさん電話→少女へ力を貸す→悪魔ほむらが世界を管理しているというところから始まった。そして映画最後、悪魔ほむらの支配が崩れた可能性が高い状態で、再びトカゲさん電話が鳴る。つまり、「トカゲさん電話の管理者であるはずのほむらの世界は終わったのに、電話はまだ存在している」という不気味な状態。しかも最後の電話は、名塚底根との接続まで示唆している。トカゲさん電話はほむら世界と名塚底根をつなぐ「穴」になってしまった可能性を示している。そしてキュゥべえは名塚底根を知ってしまった。だからラストは、「悪魔ほむらの問題が解決して終わり」ではなく今まで存在しなかった新しい接続が完成したところで終わった。続編が作られるのかこれで終わりなのかは分からないがどちらにせよ素晴らしい映画だった。
最後に
ここまでの超長文を読んでいただきありがとうございました。
私の解説/考察いかがでしたでしょうか。私は高校生なのでまどマギをリアタイしていたわけでもないただのアニメ好きですが、今回の映画は本当に心に深く刻まれました。少しでも私の文章でこの映画を好きになってくれる人がいることを願います。
そしてアニメ好きのみなさん!少しだけ宣伝させてください!このサイトは私が作成したアニメ管理サイト「季節アニメMAKI」というものです。もし良かったらサインアップして利用して頂けると励みになります。
もし間違っている部分があったら教えてください!考察楽しかった~!
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